立花月夜の脳みそ

現実と幻想のあいだで、思考を遊ばせる場所。

ベルフェゴールは便座から何を見ていたのか──トイレと結婚制度の奇妙な共犯関係

悪魔ベルフェゴールという“泥の哲学者”

みなさんが「悪魔」と聞いて思い浮かべるのは、黒い翼を広げた尊大な支配者の姿かもしれない。

 けれど、悪魔学の古びた頁を紐解くと、そこにはひどく奇妙で、人間の泥臭い本質を映し出したような大悪魔が鎮座している。

 ベルフェゴール。 彼は怠惰を司る地獄の君主でありながら、常に便座(あるいは肥桶)に腰掛けた姿で描かれるという、およそ厳かとは言えない宿命を背負わされている。しっぽは汚れないように持ち上げているところが、生々しくてかわいい。

排泄の神としての起源と、人間の“本音”

 彼の起源は、古代モアブ人が信仰した「バアル・ペオル」にまで遡る。このペオルという名には「裂け目」や「開く」という意味がある。そして驚くべきことに、古代の狂信者たちは、自らの排泄物を捧げることで彼を崇拝していたという。

最も不潔で、最も隠されるべき人間の「排泄」という行為の隙間に、彼は最初から棲みついていたのだ。

 だから、彼がトイレの中で呼び出されているというのは、あながち冗談じゃない。人間が最も無防備になり、自らの内にあるエゴを剥き出しにする場所で、彼は静かにリラックスしている。

 ある時魔界で「幸福な結婚というものは果たして存在するのか?」という議論が起こり、実際にそれを見てくるためにベルフェゴールは人間界へやってきた。

 彼は様々な人間の結婚生活を観察したが、その結果「幸福な結婚など無い」と言う結論を出した。

中世ヨーロッパの結婚制度という“もう一つの檻”

 この「最も卑近な泥の中に縛り付けられた悪魔」が放った言葉の背景を知るために、中世ヨーロッパにおける「結婚」という名の、もう一つの檻について考えてみる。

 

 当時の結婚は、現代のみなさんが夢想するようなロマンチックな愛の結びつきなんかじゃなかった。

 それは冷徹な所有権の移転であり、特に女性にとっては合法的な「奴隷化」そのものだった。

 「カバーチュア」という法制度の元で既婚女性の権利はすべて夫に吸収され、自分の財産を持つことも、自らの意志で契約を結ぶことも許されない。

 カトリックの教えという絶対的な枷によって、どれほど虐げられようとも「死が二人を分かつまで」絶対に逃げられない終身刑の檻。

 

 興味深いのは、だからこそ当時の貴族たちが「結婚に幸せはない。ゆえに真実の愛は結婚の外側(不倫や憧れ)にしか存在しない」と割り切っていたことだ。

 騎士の宮廷愛が不倫になるなんて日常だった。一応「純愛」と言う大義名分はあったけれど。

 最初から愛を期待しないシステム。それはそれで、一つの完成された冷徹な理だったのかもしれない。

現代の「結婚砂漠」は進歩したのか

 では、現代の僕たちが生きる「結婚」は、そこから進歩したのだろうか。

僕たちは誰を愛するのも、誰と別れるのも自由な世界を手に入れた。かつての奴隷化からは解放されたはずなのに、皮肉なことに、今度は「形だけは一緒なのに、精神的に徹底的に孤立している」という、果てしない砂漠に直面している。

愛があるはず」「幸せになれるはず」という過剰な幻想を抱いて一つの家に入るからこそ、それが満たされなかった時、人間は中世の檻の中よりも深い孤独に苛まれる。

 好きな人と結婚したはずなのに、思い通りにならない相手を憎み、お互いの棘で刺し合ってしまう。 人間は、愛という巨大な概念を扱うには、あまりにも未熟で向いていない

便座の悪魔が見つめる、人間の終わらないもがき

 ベルフェゴールが便座に縛り付けられているように、人間もまた、自らが作り出した「婚姻」という制度の歪みの中で、形を変えながらずっともがき続けている。

 

 義務で縛り付けられても、自由を与えられても、人間はなかなか救われない。

  トイレの奥で静かに微笑む悪魔は、今日もそんな人間たちの滑稽な渇きを、特等席から眺めているのかもしれない。